「美」の話

美しいってなに?というのはどんな人でも日頃から考えるであろうテーマだと思う。俺もよく考えている。
宮沢賢治の童話を今更ながら少しだけ読んで「美しいなー」と思ったので、それを切っ掛けにしてちょっとだけブログに書いてみる。

本質的な美しさがあったとして、それがどんな条件を持つか。
条件というのは身長とか年収のことではない。どの様にしてフィルターを通過できるか、という事だ。
イケメンや花の様に、視覚から入ってきたり、クラシックの様に聴覚から…とにかく五感を通じてくるものがあるけど、これはあくまで経路である。
経路の更に先、出口から心に届くまでの間に、それぞれが人生で培ってきた価値観があって、それがフィルターになる訳だ。

これらを加味して俺が思う本質的な美しさの条件は、「好みによらないもの」というものだ。

これは多分、厳密には“100%正しい本質的な美しさ”というものは存在しない可能性がある。人は人を価値観で判断する。価値観が人を人たらしめる所がある。であるなら、50億人が見て50億人が美しいというものは有り得ないかも知れない。ので、より近いのはどの辺にあるんだ、という話になる。

シンプルに例をあげたい。
例えば、もう絶世のイケメンがいたとしよう。誰もが振り返り、男ですらキュンとしてしまう程のイケメンだ。彼は間違いなく美しい。
だが彼は逆にB専の人には元々ウケない。また、目の見えない人にもわからないだろう。イケメンであるというだけでは、フィルターが通れるかどうかに関わらない部分が出てくる。これは本質的に美しくある為には、必ずしもイケメンである必要はない、ということの証明になる。でも絶対イケメンであればあるだけいいけど。

逆に、薄汚い、汗で出来てんのか布で出来てんのか分からない様な服を着て、朝から晩まで酒臭い息を吐き、それよりもっと恐ろしい体臭を全身から放つ、不衛生な何の希望も持たない瞳をしている歯並びの悪い終わってるホームレスがいたとする。
もし彼が二時間ほど探したり歩き回ったりしてようやくありつけたなけなしの昼飯を食い出した時、彼よりも更に汚らしい野良犬が、物欲しそうにそれを見ていたとする。ホームレスはばつの悪そうな顔をしながらも渋々となけなしのおかずを野良犬にあげたとする。がっつく野良犬を尻目に少しだけ嬉しそうに昼飯を頬張り始めるホームレス。
そこに居合わせたらあなたはどう思うだろうか。
「いやきたねーだろ」と思うかも知れない。なんせ日本は豊かな国だから。そこまで落ちぶれたホームレスが悪いじゃんとか、酒買う金で銭湯くらい入れとか、きたねー犬に飯分けたから何なんだ、とか。豊かな国の民はきっと頭もいいから。
だが生き物として考えた時、こんなに高尚な事はないと思わんか。
飢えた生き物が別の飢えた生き物に、利害を度外視して飯を分ける。これは好みによる事なく、本質的に美しいという事にならんか?と思うわけである。汚いとか臭いとか、周辺情報に惑わされて、美しさを素通りしそうになっただけではないか?どうだろう。こんなところまで文章を読んでる人がそもそもいないかも知れない。ブログなんて面白くない。

思うにそういう美しい光景が例えば日常のどっかにあったとして、どの様にすれば見つけられるかっていうと、まず気づかないといけないのだ。気付くためには、周辺情報から一歩踏み込んだポイントに気づかないといけない。その為に何が必要か?

俺が思うに、真面目であることが必要なのだ。
クソ真面目に考えなくてもいい様なことを常に向き合って考えてる人であれば、そういう光景に気づき、また美しさを見出すに至るのではないかと思うのである。

もちろん真面目なだけでもダメで、これは前提のひとつに過ぎない。美しさを観測したいのであれば、バランス感覚が大事なのかもなと思った。美しい人そのものになりたいだけであれば、バランスは崩れてるくらいの方がいいのかも知れない。極端な形の方が誰かしらの美的価値観に刺さりやすいだろうから。

みたいなことを考えていた。知らねーよ、と思った。

以下余談。
鋭いだけでも賢いだけでも真面目なだけでも、何かを取りこぼす構造なのかも知れないと思うが、宮沢賢治はそれでいうと、結構感性のバランスのいい人だったのかも知れない。美しい光景を知っていて、明暗を出すためか結構しっかり悪役を描ける人だと思った。口汚い感じも普通に出せる。時代のせいもあるかも知れないが、きちがいとかそこそこ過激な言葉遣いが見られるのが面白かった。お前エロ本とか読むんだ、みたいな感じ。