タッカラプト

不老不死を願うのは悪役、ていうイメージがなんとなくあって、これは俺の場合は大概ドラゴンボールのせいなんだけど、実際そんなに美しい願いではないのだろうと思う。必然的に、その先に尽きない欲望が存在している事がわかるからだ。いつまでも若く美しくありたい、というだけで願うことではなく、老いることなく若く美しくあれるなら、あれもこれも出来るじゃん、という願望が明け透けになってしまうわけだ。

対して、永遠を願う瞬間、というのがあって、これは結構誰でも経験があるはずで、この瞬間は間違いなく、必ず、絶対美しい。

例えば雨の降る休日、片付けるべきタスクをさっさと終え、暇なので好きなCDでもかけながら、何にも捉われず好きな飲み物を口にした瞬間。友人や恋人と談笑している内に、なんとなく手に取った漫画を読み始めたりして、不意に訪れる気安い沈黙。大好きなバンドのライブの、会場のテンションがピークに達した時。美しい瞬間だからこそ、永遠を願うはずなのである。

逆に、永遠が叶う瞬間はどうであろう、と考えたのだが、あらゆる事象に永遠というのはほぼありえず、もしあり得るとしたら、それは死か破滅しかないのではないか。死んでしまえば、永遠に死に続ける。滅んでしまえば、永遠に滅んだままだ。美しいとか美しくないとかではなく、単に虚無。

みたいな感じで、永遠というのは、叶わないからいいというか、ただ願う時だけ美しい言葉になるんじゃないのかな、という事を最近思った。人によって、またその人生の時期によって、頻度が違ったりはするだろうけど、前向きに生きていれば、永遠を願う瞬間に巡り合う機会も増えるのだろうか。はたまた、たくさん願う機会があった方がいいのか、人生に一度ってくらい貴重な方がいいのか、まではまだ考えが及ばないが。永遠を願うのは、その時に感じている幸せを、保存したいからなのかな。保存するのと永遠を願うのは似ているのかもしれない。