ドリエル

眠れないので近年気付いた最重要ワードを留める。

「頑張ってもいい」である。

これは「頑張る」という重要な項目に辿り着く為のカギでありドアノブである。

「頑張る」までの道のりは遠く険しい。様々な困難があるが、とりわけ最も挫けるのは、邪魔が入る事である。「その頑張り方でホントに意味あんの?」とか、「それで、最終的には何を得られるの?確証はあるの?本来ならこういう頑張り方をするべきであって、君のは違うみたいだけど、無駄じゃないの?」とか、そういう正論だったり、人によってはただの茶々だったりする。しかしこれらは、どれだけ正しくても、「なんでもいいから今、どっちを向いてるかなんてわからないけど、前に進みたい」という意志からすれば、邪魔になってしまう。

頑張りたい時というのは大抵、下を向いてて方向がわからない時か、スピードが乗ってて方向転換がスムーズにできない時だ。外から客観的に見れば滑稽に見えるかもしれない、右往左往している事を頑張ってると表現する事を、彼らは許してくれない。

頭を上げて冷静に先を見据えて、方向を定めて、一歩ずつ歩んでゆけばいい、というのは正しく正攻法であり、あるべき姿だ。出来るならそうした方がいい。めまいが起きても、周囲に足を引っ張られても、冷やかされても、或いは期待され、期待し、それを裏切り裏切られても、逆に誰にも全く期待されず、ようやく何かを得られた暁に、友達だと思っていた人が冷笑したり嫉妬してきても、絶えず歩んでゆく事を続けて行けるなら、それがまさしく理想だ。

俺にはそんな瞬間は一度もなかったと言っていい。

作品を見せたのに何も言われないとか、気を遣われたりとか、逆にダメ出しはいくらでも出てくるのに全然良いところ言ってもらえないとか、そもそも見てくれないとか、ほぼそんな経験しかない。

一番面白い漫画を描いた、一番綺麗な絵を描いた、その為に膨大な時間を費やした、その全てが「つもり」だったと言われてるような、もっと頑張るしかないとか、努力が足りなかったとか、次はこうしたらいいとか、ホントに描きたかった話なのかとか、簡単に言われたりする。

それについて文句があるとかないとか、そんなのは全然大した話じゃない。「あの作業が、思考が、全部『つもり』で片付けられて終わり?」である。それは果たして、「頑張ってよかったのか」?という気持ちになる。正論とは、「お前みたいに才能ないやつでも、時間をドブに捨て続けていれば、『塵も積もれば』で、いつか地表に出られるかもよ」と、こちらとしては言われてる気分になる。無駄が悪なら、俺が努力するという事の悪性は高い。読むのだって時間を払う。描き手の作業時間と読み手の読む時間がそのまま損失になるのだとしたら、確かに悪と言える。

そんな事を考えていては、歩くどころか、立ち上がれなくなる。そんな事ばかり繰り返しているうちに、足腰は弱くなり、ついに本当に立ち上がれなくなる。幻想でもなんでもなく、現実に、そんな人はいくらでもいるはずなのだ。

だからそこで、「頑張ってもいい」のだ。

これのいいところは、無条件で良いところだ。許す。それだけ。

頑張ってるやつに安全圏から石を投げるやつとはそもそも関わらなくて良い。笑ってるヤツが先をいってるヤツならムカついていい。安全圏で笑ってるヤツは毒にも薬にもならないからそこで死ぬまで笑って死んどけって思ってればいい。励ましてくれるヤツ、一緒に頑張ってくれるヤツ、なら、いくら増えてもいい。ヤバそうなヤツだったら逃げればいい、逃げる方向に進める。実は、人は頑張ってもいいのだ。

足腰が弱くなるよりマシ。沼の底で今よりずっと高い金稼ぐよりマシ。頑張らないよりマシ。死ぬよりマシだ。

キツくなったらうずくまって、また頑張ってもいい。永久機関の完成。あとは弾みで死んじゃうまでは頑張れるはず。

とりあえずやるのだ。始めればなるようになる。机上の彼に言いくるめられてる程、人生は長くはないはず。やっていいのだ。